日本のNLP(神経言語プログラミング)は、なぜ退屈なのか


 

◆日本におけるNLPの概況

さて、NLP(神経言語プログラミング)も、
日本に本格導入されてから、
20年ほどが経ち、

良くも悪くも、普及してきましたので、
状況の総括をしてみたいと思います。

ところで、現在、本やスクールは多くあり、
その効果を、さまざまに謳っている一方で、
ネットを見ても、
「怪しい」「うさんくさい」「効果がない」
などの言葉も散在しています。

それらは、ある面では、
皆、正しいのですが、
基本的な情報が不足しているようなので、
「本当のところはどうなっているのか」
を少し整理して、まとめておきたいと思います。


◆日本への導入(輸入業者)の問題について

まず、
「怪しい」「胡散臭い」側面ですが、
これは、正解であり、
それは、日本における輸入業者に関係している事柄です。

例えば、コーチングでさえ、元々は、
商業セミナー(自己啓発セミナー)を運営していた業者が、
自己啓発セミナーに代替する商品として、
輸入した経緯があります。

そのため、方法論自体とは別に、
一種のうさんくささや嘘があるわけです。
やっている当人たちが、
その方面での素養や意欲もなければ、
方法論的精度や効果よりも、
マルチ商法的に、
金になることを主眼としていたからです。

しかし、コーチングも、
普通のまともな人たちが徐々にやるようになって来て、
方法論的なコーチングに、
少しずつ近づいてきたという経緯があります。
NLPも、少し似たような側面があるのです。

そのため、
NLPを学んでみたいという人は、
スクールの各団体や主催者が、
どういう出自を持っていて、
心理を扱う最低限の素地があるか、
また、その人格レベルを、
見極めていくことをおすすめします。

しかし、残念ながら、
コーチングと較べても、
さらにレベルが低いのが、
NLP業界の実情なのです。


◆カウンター・カルチャーとしてのNLP その出自と前提

さて、もうひとつ、
NLPが、日本でわかりにくい側面は、
オリジナルのNLPが、その出自として持っている、
カウンター・カルチャーの、
文化的な意味合いや創造的沸騰が、
感覚的に理解されていないことです。
カウンター・カルチャー(対抗文化)の思潮とは、
ヒッピー云々のような、
表面的で、風俗的な流行とは関係のない事柄です。

アップルのスティーブ・ジョブズが、
サンフランシスコ禅センターに、
熱心に通ったのは、
別に遊びでも、流行のためでもありません。
感覚の深いところに根ざした直観であり、
共鳴だったのです。
そこのところが分からなければ、
ジョブズのことも理解できないのです。
また、ビートルズでさえ、決して流行で、
超越瞑想を行なったわけでも、
それで、終わったわけでもないのです。
http://www.tm-meisou.org/blog/archives/247

さて、
NLP神経言語プログラミングは、
グリンダー博士とバンドラー博士によって
パールズ、エリクソン、サティアなどを、
モデリングしてつくられたとされています。

ところで、アメリカにおける心理療法は、
日本のものとは違って、ずっと、
一般の人々の生活の近くにあるものです。
自分の精神分析医を持つことが、
ステータスだったこともある国です。
(映画などでも見かける風景です)

その流れで、60年代、
カウンター・カルチャー隆盛の時代には、
一般の、感度の高い人々が、
ゲシュタルト療法や、エンカウンター・グループ等を、
治療のためではなく、心や創造力を解放する手段として、
気楽に体験したわけです。
治療のために、ドラッグ(薬)を使うのではないのと、
同じことです。
その文脈で、エサレン研究所なども注目されたわけです。

そしてまた、その周辺には、
それらの手法を、見よう見まねで取り入れた、
カルト系や商業系の、自己啓発セミナーたち、
エストやその他が、非常に沢山あったわけです。
牧師や導師(グル)の説教や、

モチベーション・スピーカーの講話が、
巷に溢れている世界にあっては、
ごくありふれた風景だったわけです。

そして、
グリンダー博士も、バンドラー博士も、
もともとの専門領域は、言語学や数学であり、
専門の心理系ではなかったのです。

ただ、上記の背景もあり、体験的心理療法は、
必ずしも専門領域だけに閉ざされていたわけでは、
無かったのです。
(元々、バンドラー博士は、
パールズの逐語録作成などを手伝っていましたが、
その語り口は、どこか部外者的です)

そしてまた、
本当に、実際的な効果だけを求めるなら、
心理系の専門領域などというジャンル分けも、
あまり意味を持たなかったのです。

彼らが、パールズ、エリクソン、サティアと、
流派もバラバラな人々を、モデリングした背景には、
そのようなフリキシブルな前提があったわけです。
そのため、メイン・ストリームの学問を疑っていたし、
そもそも評価していなかったのです。
そのことをうかがわせる、興味深いエピソードがあります。

NLPが、一部で話題になり出した当初、
グリンダー博士とバンドラー博士らは、
家族療法で有名なMRI(Mental Research Institute)に呼び出されて、
デモンストレーションをやらされたようです。

グリンダー博士曰く、
「MRIの奴らは、度肝抜かれていた」とのことで、
その結果、MRIでは、
NLPについて、一切言及しないようにと、

緘口令が敷かれたそうです。

若き日の、悪態つきのバンドラー博士が、
どんな挑発的な言辞で、
旧弊なセンセイたちをキリキリ舞いさせたのかはわかりませんが、
その場面を想像してみると、らしいエピソードです。

ところで、
アカデミックの世界などに持ちこんだら、
NLPは潰されていただろうというのが、
グリンダー博士の見解のようです。

そして、より一般の人々に訴える方向で、
NLPを普及させる方に向かったわけです。
そもそもが、カウンター・カルチャーなので、
そこのところは、問題ではなかったのです。
そして、良くも悪くも、
普及したというのが現状なのです。

このあたりのコンテクストが、
学問的なことは、正解であると思い込んでいる、
物事を信じやすい日本人には、
分かりにくい側面でもあるのです。

 

 


◆人生戦略のツールとしてのNLP

さて、それでは、
「NLPとは何か」といえば、
それは、
「単なる心理学ツールの寄せ集めである」
ということです。

そのため、
どのようなコンテクストで利用すれば、
NLPの手法は効果を出すのか、
そこのフレームが押さえられていないと、
NLPも意味を持たないわけなのです。

そして、そのことでいうと、
NLPは、そもそも、
カウンター・カルチャーを前提としたものなので、
人間(人生)そのものを、人生の質を、
旧来の姿にない新しい形に、創り変えていくという、
オルタナティブなヴィジョンを、
背景に持っていたのです。

ところで、彼らは、
グレゴリー・ベイトソンに、
初期の本の序文を書いてもらっています。

「グリンダーとバンドラーは
我々がその時に直面していた問題に
直面したのであり、
その結果が、このシリーズである。
彼らには我々が持っていなかった
―あるいはその使い方が分からなかった―
道具がある。
彼らは言語学を、
理論の基礎に置くと同時に、
治療の道具にすることにも成功した。
彼らは精神医学の現象を
これで二重に照合して確かめることができ、
今なら私にもわかるが、
その時には残念ながら見逃していたことを
彼らはやりとげたのである」
『人間コミュニケーションの意味論』
ベイトソンによる序文、尾川丈一訳(ナカニシヤ出版)

そのベイトソンは、
人類学や精神医学の実証研究から、
私たちの、通常の「心」も、
(彼の学習理論にしたがって)
習慣による二次学習の結果であると、
洞察していました。
そして、それを変化させるのが、
より上位階層レベルの学習、
三次学習(学習Ⅲ)であると考えたわけです。
「気づきと変性意識の技法 基礎編」

ベイトソンは、
二次学習発生の由来が、おそらく、
問題解決に費やされる思考プロセスの経済性である、
と指摘したうえで、以下のように記しています。

「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、
何の役に立つのかという問いに、
『それによって生のシークェンスの多くを、
いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』
という答えを用意したわけである。
『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』
という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。
これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。
『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、
また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、
形づけ方の『型』である。
要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。
とすれば、Ⅲのレベルに到達し、
自分の行動のコンテクストが置かれた
より大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、
『自己』そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。
経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、
そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」
(前掲書)

「習慣の束縛から解放されるということが、
『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。
『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である」

「要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである」
「これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、
変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい」
というようなヴィジョンが、
カウンター・カルチャーを背景に持ち、
ベイトソンに序文をもらい、
天才肌のパールズ、エリクソン、サティアと交流し、
その方法論を抽出・再構成していった若者たちにとって、
どのような、人間(人生)の、
あるべき未来を夢想させたかという点は、
想像するだに、クリエイティブで刺激的な事態です。
そこに、NLPの原風景があるのです。
NLPの少しSF的で、遠大な含意は、
そのような点にもあるのです。

そのため、
はじめから「NLPの手法ありき」で、
物事を考えても、イメージはひろがらないし、
あまり成果の出るものでもありません。
そのような、創造性を欠いた現状からも、
グリンダー博士は、NLPの未来には、
悲観的なようです。

そのことは、
文化的前提のない、日本においては、
なおのことなのです。
そしてまた、ここが、
日本のNLPが、
とりわけ退屈になってしまっている、
要因のひとつでもあるのです。

NLPカリキュラムの、既存の手法ありきで、
それをいっぱいいっぱいに試してみても、
あまり効果の出るものではないのです。
また、
背景のヴィジョン(フレーム)がきちんとないと、
そもそも、
NLPが作用するフレーム自体も、
生まれて来ないのです。

大きな人生の、得たい方向性(戦略)を組み立てる中で、

また、セッション現場のリアリティの中で、
どのような要素(場面、局所戦)に、
適用し、位置づけたら、
NLPが効果を生むのかを見極めていくことが、
まずは、NLPをイメージ豊かに使うコツとなるのです。

そのため、
あるいは、逆にいえば、
NLPを、あまり真剣にとらえずに、
アートやSF的なエンタメのひとつとして、
まずは自分で試してみて、
楽しんでみる位のスタンスの方が、
何かしらの人生のヒントを、
つかめるのかもしれません。

 

 

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